森泉のはなし 「藤」



 日曜日。
 駅前通りに、その女性はいた。長い黒髪、黒ぶちの眼鏡。地味な風貌はどこにでもあるが、人ごみの中で彼女が目立っているのは服装が原因だった。羽織って いる大きめの白衣。染み一つ、しわ一つ無い。駅前には病院はおろか研究所や学校すらありはしない。物珍しそうに女性を眺める通行人は大勢いたが、彼女が何 者か理解できた者はいないだろう。その女性自身、周囲の視線を気にしている素振りもない。むしろ周りが見えていないのではないかという強引さで人ごみを突 き進んでいく。睨まれても舌打ちされても女性は前だけを見ていた。
 待ち合わせ場所として特に若者が集まる噴水前。邪魔者を押しのけた女性は勢いそのままに噴水に身を乗り出した。瞬きしない目は真剣そのもので水中を睨ん でいる。
 「―――そうよ。きっと、そうなのね」
 大きすぎる独り言は周囲の人間にも当然聞こえていたが、皆ちらりと視線を向けるだけで関わろうとはしなかった。
 「ついについにこの時が来たのね。えぇ、えぇ、知っていたわ。私はもちろん知っていた。なら貴方は気付いていたのかしら。ねぇ、貴方?」
 こちらを振り向いた女性は人差し指で眼鏡のズレを直した。
 「貴方よ。そう貴方」
 「―――は」
 「貴方は本当に分かっているの? 魔王が誕生しようとしているのよ。呑気に待ち合わせなんかしている場合じゃないわ」
 「場合です」
 女性は白衣のポケットから紙束を取り出した。その中から一枚を抜き取り―――名刺だった。差し出された名刺には司祭藤と書かれている。不親切にも振り仮 名はなかった。残りの紙束は使い古しのメモ帳だった。女性はバラバラとメモ帳をめくっていく。
 「私の計算では魔王誕生まで一週間ないわ。とにかく時間がないの。一週間よ? 七日なのよ?」
 神経質そうに眼鏡のズレを直して女性は続ける。
 「だけど私はついに見つけたの。もう魔王の誕生は阻止できない。だから魔王を討つ案ね」
 メモ帳には赤いペンで細かい文字が書き込まれている。なかなかの達筆だった。
 「ヒントはこの噴水だったのよ。毎日のように傍を通っていてなぜ気がつかなかったのかしら。いえ、後悔は必要ないわね。それよりも先のことが重要なのだ から」
 うっとおしそうに長い髪を払い、司祭は噴水を覗き込んだ。
 「見えるかしら。ほら、あのこよ」
 指差す先には魚―――鯉が泳いでいる。司祭は誇らしげに言いきった。
 「あのこはね、川を泳いで滝にのぼり龍になるの。青竜よ。これで魔王に対抗できるわ。えぇ、十分よ。あのこを川に運び出す計画は近々実行するわ。そのあ たりは私に任せてちょうだい。確実に成功させてみせるから」
 言いながらメモ帳のページを捲っていく。今度のページには赤の蛍光ペンであちこちラインが引かれていた。
 「万が一にでも鯉の滝のぼりが間に合わなかったらって不安が貴方にもあるでしょう。仕方ないわ。人間だもの。だけど、そのパターンも予測済みよ。安心し て」
 がばりと身体を起した司祭は勢いよく顔を寄せてきた。
 「魔王の誕生と共に、この世界には勇者が現れるのよ!」
 あまりにも興奮しすぎて声のボリュームがおかしくなっている。発言の内容も相まって、一瞬だけ周囲の視線を独占した。失笑苦笑嘲笑―――いわゆる変人を 見る目が向けられる。完璧に周りが見えていない司祭がそんなことに反応するはずもなく捲し立てるように話は続いた。
 「正確には勇者の生まれ変わりなのだけれど。前世でも来世でも、そしてこの世界でも彼らは魔王を斃すという宿命を背負っているの。魔王はいつの世にも存 在しているもの。だったら勇者だって存在していなくてはおかしいでしょう? 世界のバランスは常に保たれているものなのよ。分かったでしょう? この街は 間もなく戦場になるわ」
 演説じみた説明を終えて―――ふと、司祭は腕時計に目をやった。眼鏡を押し上げるとメモ帳をポケットに戻してしまう。
 「そうね。私もこんなことしている場合ではないわ。私は魔王と戦うことはできないけれど、それでも私にもできることがあるもの。貴方。貴方との会話は私 にとってとても有意義だったと思うの。ぜひ貴方の名前を聞かせていただきたいわ」
 「―――大地」
 「もう会うことはないでしょうけど忘れるまでは覚えておくわ。ごきげんよう、ダイチくん」
 カツンとヒールを鳴らして司祭は白衣を翻した。興奮冷めやらぬまま足早に去っていく。目立っていた白衣も人ごみに紛れるとあっという間に見えなくなっ た。司祭の居た空間には若者たちが押し寄せ、司祭の痕跡は何も残らない。駅前の賑やかさは、司祭が騒ごうが沈黙しようが居ようが居まいが変わることはな かった。おそらく数分後―――もしくは既に、人々の記憶から司祭の存在は消えているのだろう。
 「―――」
 溜息をついて噴水の縁に腰を下ろす。携帯を見るとメールが来ていた、内容は、ドタキャン。
 ―――背後で鯉が跳ねた。
 「帰ろ」
 実に無駄な時間を過ごしてしまった。


 end
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