赤い記憶




 濡れて、まみれて、貴文は―――笑っていた。
 「は・・・・・・ッ、は」
 掠れた息。苦しげに洩れる声は、やはり笑い声。足を前に投げ出して壁にもたれた貴文は壊れたマネキンのようで。笑って―――誘うように笑って、俺を見上 げてくる。
 赤。
 赤?
 「おまえ。それ」
 馬鹿みたいに立ち尽くす俺は、馬鹿丸出しの無意味なことしか言えない。貴文の視線に絡め取られたようで、目を、そらすことができない。
 赤い貴文。
 ―――いや、だから。赤って何。何が。
 「は、・・・」
 詰まった息がゆっくりと吐き出される。貴文は重そうに右手を持ち上げた。胸を撫でたその掌はズルリと滑り落ち―――赤。
 「何。なんで」
 「―――は」
 切れた唇が動き、赤い舌が覗いた。そっと唇をなぞっていく舌。唾液でぬめったソレは生き物のようで、わずかな嫌悪感と、わずかな―――興奮。
 俺の反応を笑い、貴文は、ゆっくりと赤い掌に舌を這わ、せ―――。
 「   ぁ   」
 ど く ん 、と心臓が跳ねた。
 「おまえ」
 どくんどくんを喧しい。
 「お、まえ」
 呼吸するたびに喉が渇いていく。
 「ッ、は・・・ァ」
 笑って舐め取る、赤い―――血。貴文の血。赤い貴文。血まみれの貴文。笑って、わらって、ワラって、俺を見ている。
 「は」
 声。が。
 「ッ・・・は、ぁ。は・・・は、は、は、は。は。は。は。は。は。は。は。は。は。は。は。は。は。は。は。は。は。は。は。は。は。は。は。は。は」
 「やめろ」
 思わず貴文の腕を掴んでいた。
 声が止まる。それでも薄い笑みが消えることはなく。後から後から湧きあがり貴文の顔を歪ませる。
 「おまえ。なんで」
 目の前に、貴文の顔。微かに開いた唇が、囁く。
 「―――えっち」
 「   っ   」
 ぞくりと震えが走る生ぬるさ。甘ったるく鼓膜に溶けていく。
 「もう、やめろ」
 「は・・・は」
 赤い掌が視界の隅で揺れ―――つ、と頬に触れてきた。
 「    」
 激しかった鼓動が遠のいていく。黒の瞳に見つめられ、見つめ返し。
 気がついた。
 目をそらせないのは。
 見惚れているから、だろ?
 「は」
 貴文の瞳が満足そうに揺れた気がする。頬を撫でる手つきは―――そう、愛撫。薄っぺらい理性が、痺れていく。
 冷たい指が擽るように唇をなぞり。
 力を抜けば、するりと中、に―――。
 「    」
 血。血。血。
 脳を蕩けさせる鉄錆の味。喉を鳴らして飲み込めば 意     識  が      ト          ぶ  。
 「ぁ     」
 だらしなく開いた口は貴文の指を受け入れていた。
 ―――なにを、やってるんだ。
 なんで、こんな。
 こんな―――。
 ―――鈍い快楽に―――気付いては―――いけない―――。
 「・・・は、は。前野。えろい。その、顔」
 「―――るせ」
 「うん。だから」
 突然。
 「おあずけ。だ」
 貴文は俺を押し離した。
 「      」
 とてつもない消失感。
 一瞬、何が起きたか分からなかった。
 頭は空っぽ。
 「な、に」
 笑う貴文は相変わらず血まみれで。なのに。
 俺を見ない。
 「た、か・・・」
 「貴文ー?」
 音もなくドアが開いた。反射的に振り向くと、女が顔を覗かせていた。
 「え? あれ?」
 俺と貴文を見比べる女。困ったような眼差しは貴文に向けられた。それは貴文が血を流していることではなく、俺がこの場にいることに対する困惑。
 「じゃあな前野。ばいばい」
 「―――」
 貴文の、それは静かな拒絶。
 「・・・・・・・・・」
 何も言う必要はない。
 ―――いや。俺には、聞く権利もない。
 赤い貴文をそのままに踵を返す。俺が場を離れると同時に女は部屋に入ってきた。俺には目もくれずに真っ直ぐ貴文の元へ。
 「ほら貴文。いつまでそうしてるのー」
 歩み寄る女は赤に怯まない。
 女は―――俺の知らないことを知っている。
 「・・・・・・・・・だからなんだよ」
 口の中だけの呟きを飲み込み部屋を出る。閉めたドアに背を預け。急に、足の力が抜けた。―――足も、腕も、肩も。気が、抜けた。
 蹲って見上げた天井は暗い。
 「わけ・・・わかんねえよ・・・なんだあれ」
 何でもない、と貴文は言った。だから、あんなでも何でもないんだ。何でもない。―――俺に、踏み込む権利はない。
 トモダチだから?
 トモダチなのに?
 お友達。仲良しこよしのオトモダチ。
 質問なんかいくらでも湧いてくる。
 ナンデ、ドウシテ。シラナイ、ワカラナイ。―――だから。
 俺にも教えてくれよ。
 ―――なんて。
 ―――全く何様だ。
 「・・・ふざけんなよ・・・」
 俺は何をした。
 俺は何をしようとした。
 あの瞬間。夢でも見ていたかのように曖昧なのに。
 舌の上に残る微かな味は吐き気と嫌悪感と、どうしようもない興奮を思い出させる。
 「馬鹿か・・・俺・・・」
 薄い笑みを浮かべる貴文の姿はしっかりと焼き付いている―――赤い記憶。


 end
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