「さようなら」

泣きそうな、実際はすでに泣いていたのかもしれない彼女の最期の顔が今でも消えない。

「―――、好きだったよ。」

風にかき消された彼女の言葉。
僕の名前と一緒に消えていった。



◆あの日の嘘から始まった



ただ、ぼんやりと空を眺める。記憶に残っている彼女の面影が、そこにあるからだ。
僕は、気付いた時には、死者が通る門にいて、何だか知らない間に死神なんてものになって、現世に戻ってきている。
けれど、いろんなものが欠落してしまっているらしい、俺は何も覚えていなかった。
ただ唯一覚えていたのが、彼女の泣き顔と、印象的な空色の瞳だけ。
僕自身、名前すらも忘れてしまって、現世に未練があるのかどうかもわからない状態だ。
だからこそ、使い勝手がいいと冥府の連中に想われたのかもしれない。
死んだ後に、戻って何かしようとする連中も多いみたいだし、そういう意味では、仕事だけしかしない無気力な駒なのだろう。
「…君は、いったい誰なんだ?」
空に問いかける。けれど、答えは戻らない。
そもそも、どうして僕は死んだのかもいまいちわかっていないのだ。
ただ、彼女の持っていたナイフから、彼女に殺されたのだろうということは予想がついているが、それ以上は何もわからない。
「君は誰で、僕は誰か。」
いつか、逢えるのだろうか。
あれからどれぐらいの月日が経過しているのかさえ、わからないが、彼女の死を見たわけではないから、きっと何事もなければ生きているのだろう。
そう思ったから、いつか逢えたら全部わかるのではないかと、こうして死神になることを結局のところ承諾したのだ。
本当ならばとっとと死神になんてならずに消えていた。
たぶん、生前も僕はこんな感じだったのだろう。
そろそろ、今日の仕事が始まる。
目的地へと向かう為に腰掛けていたビルの屋上の隅から立ち上がり、そのまま一歩足を進めた。
何もない空を、まるで透明の床があるかのように歩く僕。
最初はこれも驚いたけど、何度も繰り返すうちに感動もなくなったなと思いながら、歩く。
この日、僕が求めていた過去と答えを知るなんて、思いもしなかった。



静かに、誰にも身取られることなく息を引き取った相手から、魂を刈り取り、これを冥府へと連れていけばいいだけの仕事。
回収して、完了のデータを送り、そこから立ち去ろうとした時だった。
一人の少女がこちらを見ていた。
本来ならば、死神の姿を人が視ることは不可能だ。だから、気のせいだと思い、そのまま立ち去ろうとした。
「もしかして、なっちゃん?なっちゃん、なの?」
彼女は確かにこちらを見て、必死に呼びかける。
僕の知らない『僕を指しているのであろう名前』を。
「やっと、やっと見つけた。逢いたかった。ずっと、逢いたかったよ。」
そう言って、こちらへ近づき、飛びついて来た。
おかしなことに、彼女は僕に抱きついたのだ。人であれば、決して触れることができないはずなのに、だ。
その違和感に、気味悪く感じた僕はすぐさま引きはがす。そして、もう一度しっかり相手の顔を見た。
どうしたの?と不安そうに言葉を紡ぐ彼女の顔は、僕に唯一残った記憶の『彼女』とはまったくの別人物だった。
黒い髪に血のように紅い瞳をした彼女。
けれど、覚えていないはずなのに、どうしてか違和感は消えないし、何よりも、胸騒ぎのような、ざわざわたした感覚を覚えた。
全身が訴えかけているのだ。
『彼女』は危険だ、と。
それと同時に蘇る、なくなった過去の記憶の断片。
「――っ!」
誰かの声が重なる。
カチリと頭の中で欠けていたパズルのピースがはまった。
「――しおん。」
ポツリと出た『名前』に彼女は顔を歪ませ、しおんと呼んだ『彼女』が少しだけ嬉しそうに、だけど複雑な笑みを浮かべていた。
「よくも、よくも…なっちゃんは私のものなのよ!」
先程までの可愛らしい笑みは消え失せ、まるで鬼のように怒りと殺意が表に現れた彼女に、僕は完全に思い出した。
最初から、僕には記憶がなかった。あくまで『彼女』の顔と言葉だけで、けれどそれが真実から遠ざかる解釈をしていた。
確かに、『彼女』は僕を刺して命を終わらせたナイフを手にしていた。しかし、ただそれだけで『彼女』が僕を『殺した』という事実はなかった。
僕を刺したのは目の前にいる怒り狂った女。
正確に言えば、『彼女』を殺そうとした女から庇って僕が刺されたのだ。
最期の景色と言葉だけの記憶だったので、あの女のこと全て消えていたので最初から思い違いをしていたのだ。
「『りんね』、さすがに二度目は僕も許すことはできない。」
これは、はっきりとした拒絶に聞こえただろう。
「一度も許すつもりはないけど、君が『壊れた』のが自分のせいだとしおんが哀しむから、一度は許す。けれど僕も愚かな『人』だから、何度も大人しく引き下 がることはできない。」
そう言った時、一瞬だけ、女は表情が普段のものに、悲しそうになった。けれど、すぐにきっと彼女を睨みつけた。
ずっと、女にとって彼女はコンプレックスであり、敵わない存在で邪魔だったらしい。皆彼女を愛し、女を愛さない。
親は再婚同士の連れ子で一切の血の繋がりはないが、比較され続けた女は壊れた。
本当は、女が気付いていないだけで愛されていたのに、何でも彼女のものを欲しがり、それを手に入れたら彼女になれるのではないかという妄想に取りつかれ た。
そして、彼女にとって大事な僕を好きだと言いだしたのだ。
最初はそれが理由であって、今はどうか知らないが。
ただ、女は個人として誰かに見てほしい、そう望んだ。
その望みが叶っているのだということを女が気付かないから、とうとう歪みが生じた。
「もう、止めよう。何度繰り返しても、私もこればっかりは譲らない。」
そう言った彼女の瞳にはしっかりとした意思があった。
「なんで、なんでなんでなんで…っ!なんで駄目なのよっ!いつも、どんなものだって私のものになった!」
「いくら私でも、『妹』に譲れるものと譲れないものがあるの。」
僕を殺したことを許さないとはっきり言った彼女。嫌い嫌いと幼い子どもの駄々っ子のようにごねる女。
いつの間にか蚊帳の外にいる僕は、はっと思いだす。
すっかり忘れていたが、二人はまだ生きていて、僕は死んで死神になったのに、どうして二人とも見えているのか。そして、本当に彼女達は人なのか。
「しおん…君は、どうして…どうして僕が見えるんだ。彼女もそうだが、おかしいじゃないか。」
僕は死神で、君達が人間なら、まだ生きているのなら、見えるはずがない。
だが、記憶のまま姿が変わらない二人は明らかに異常だ。
「あれから、結構な月日は経っているはずだ。なのに、変わらない。どうしてなんだ?」
現在、僕が死神という人ではないものであり、そういったものが存在する世界だ。最初に出会った時から二人はすでに人ではなかったのではないか。そういった 疑問が湧いた。
「ずっと、言えなかったけど、私達も死神のようなものなの。」
あくまで似ている仕事であり、回収された魂を光の道へ導く案内人なのだと彼女は言った。
そして、自分と会ったから、僕の運命がねじ曲がり、あの日、死んでしまったのだと言う。
「ごめん。誤って許されることではない。出会わなければ、最初から、刺されるぐらいじゃ『死なない』ってこと、言っていたら…何度も後悔した。」
彼女から聴いた、可能性としてあったけれども、実際本人から口にされた言葉は衝撃が大きかった。
「もう、全部過去だけど、もしかしたら、死ななくて良かったんじゃないかって。」
今でもその気持ちは変わらない。それなのに、また眼の前に現れてさらに歪みを生じさせる女の行為を見逃せないから、出てきたと、彼女は言った。
つまり、あの女が僕の前に現れなければ、彼女は二度と姿を見せる気はなかったということだ。
ならば、僕としてはこんな形であれ、あの女には感謝すべきなのかもしれない。
僕は、殺意を彼女に向ける女に近づき、その手を取った。
「ごめん。あの日も言ったけど、僕は彼女が大事なんだ。君のことも嫌いではない。ただ、彼女が僕の特別であったというだけ。」
だから、決して君が彼女に劣るということでも、嫌いであることも決してないのだと伝える。
「彼女は僕にとって、恩人でもあり、尊敬する相手だ。そして、彼女が『何者』であろうとも、一生共にある覚悟ができるぐらい、大事なんだ。」
君は素敵な女性であるが、誰よりも彼女が大事であるが為に選ぶことができない。
そして、彼女を傷つけるのなら、例え君でも僕が許せない。
それは、君が嫌いなのではなく、彼女が第一であるからだと、僕が言うと、途中からすでに泣きそうになった女がとうとう泣きだした。


あれから、相変わらず僕は死神のままだった。二人も今まで通り仕事をしているようだ。
だが、少しだけ違うのは、僕の元へ逢いにくるようになったということか。そして、少しだけ僕が人だった頃のように、穏やかな日々が続いている。
結局、りんねの僕に対する思いは無い物ねだりの執着だったが、結果的に何故か懐かれた。嫌われていないという事実が嬉しかったらしい。
実際彼女は嫌われてはいない。あまりにも好意が姉に向きすぎたせいで、疑ってかかるようになり、人間不信の思い込みだったようだ。
その事実がわかり、周囲を見渡せば、意外と嫌われていないという事実は認識したようだ。
しかし、最初からしおんの妹として認識して近寄って来た奴らは、大抵しおんに好意を持っている連中が多かったせいで、最初から普通に接していたらしい僕意 外警戒している始末。
まぁ、平和ならそれでもいいかと思う僕だが、どうやらそう楽観視していられないようだ。
「いいじゃない。お友達として一緒にいるだけならいいんでしょ?何で邪魔するの!」
「お友達でもいいこと悪いことあるでしょ!」
こうして、喧嘩するようになった。あの頃を考えると、姉妹喧嘩するのもいいのかもしれないが、間にいる僕はどうもいたたまれない。
気の強いしっかりした姉であるということは、生前から知っていたが、思った以上に彼女は強いみたいだ。新しい発見に驚きながら、今日もほどほどに喧嘩を止 める。
あの日、二人と出逢った日から始まった偽り。
あの頃とは環境も変わってしまったが、これはこれでいいのかもしれない。


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