服を着た。外に出た。暗かった。
「うぉ・・・さみぃ・・・」
ポケットに手を突っ込んで溜息。息、白いんですけど。
特に行くあてもないんだが、突っ立っていると締め出されたみたいで格好悪い。
とりあえず右。なんとなく右に歩き出す。
と。
三歩ほど進んだところで、バタバタと近付いてくる人影があった。さっそく選択をミスったらしい。とはいえ、いまさら方向転換すると確実に話がややこしく
なるので足を止めて待っててやることにする。
息を切らせて俺の前まで来ておいて。
「あら偶然ね」
などとのたまう女が一人。出待ちのくせに、このとぼけ様は恐れ入る。
「・・・暇だな、おまえ」
思わず本音が口を出た。
女―――というより少女、か―――は腕を組んで睨みつけてくる。
「冗談言わないでくれる? 世のため人のため日夜悪を滅するこの私が暇なはずないでしょう。あなたのようなゴミの始末に時間を割かなければならない私の
苦悩が理解できるならば直ちに首を差し出してくれないものかしら」
いきなり全開だ。
さっそくうんざりだ。
ほとんど聞き流した。耳がそういう作りになってきた。
「俺みたいな人畜無害を相手に悪とか。頭おかしいんじゃねえの」
「少しくらい狂っていなければ正義の味方なんてこなせないわよ。綺麗事で世界が救えるとでも思っているの?」
自覚はあるのかクレイジー実希。
開き直るくらいなら可愛いもんだが、こいつのは素だ。
障害物を薙ぎ倒して突き進むツワモノ。障害物ってのは言わずもがな俺。
「速やかに命を終えるがいいわ。あまりにも長いことあそこで見張りを続けていると通報されかねないのよ私」
実希がナイフを突き付けてくる。
助けておまわりさん。善良な近隣住民は一刻も早く通報するべきだ。
なのに。正義の味方だか権化だか知らないが、通行人が皆無なあたり天は実希に味方しているらしい。
暗い空を仰いで溜息。
「なぁ。一応訊くだけ訊いてみるけど」
「あなたの言葉を聴くなんて耳が腐る思いなのだけど、無様な命乞いならば聞いてあげようかしら」
「血。吸わしてくんねぇ?」
「―――あっは。あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」
怖い怖い。
「ははははははははははははははははははははは。死ねばいいのにー」
だよな。わかってたけど。
「遺言は終わったようね。さあさあさあさあ。朽ち果てるがいいわ」
「ちょっと疑問なんだけどよ」
「それはそうでしょう。あなたの残念な知識量では世界は謎に満ち溢れているはずよ」
「俺、なんでそこまで嫌われてんの」
「―――」
蔑む視線が突き刺さる。ゴキブリの死骸を見るような目は本当にやめてもらいたい。
それでも辛抱強く待っていると、実希はナイフを下ろした。
「あなたは何のためにここにいるの?」
内心ではイラついているのがわかるが、丁寧な口調だった。
「それって、俺の生き様とか存在意義の話?」
「何をしに外に出てきたかという話よ」
「腹減ったから。食事」
「でしょう。あなたは自分の欲望を満たすために無垢な婦女子を襲おうとしているのよ。そんな変態を放置する理由がどこにあるのかしら。あなたのようなゴ
ミが存在している理由も不明だけれど」
「誰だって食事は必要だろうが」
「あなた。血を飲まなければ生きていけないわけではないでしょう」
断言しやがった。こいつ、そこまで知ってるのか。どうやって調べたんだか。この街で俺を知ってる奴なんて数えるほどだってのに。いつも真面目すぎて困
る。
「―――・・・嗜好品つーか。そりゃ、普通に食えるけど。それは生命活動が維持できるってだけで」
「犯罪者の言い訳なんて聞く耳もたないわね」
「俺だって好きで吸血やってんじゃねぇんだよ」
「だったら。死ねば?」
結局それか。融通がきかない。
だが実希という人間、俺全否定なわりに律義に質問に答えている。良くも悪くも真面目なんだ。そこらへん扱いづらい。
「なぁ、実希。おまえ処女だよな」
「どうしてその結論に至ったかは置いておくとして。何が言いたいのかしら」
実希の双眸が細くなる。声のトーンが落ちて不穏だ。
「街を守るためにおまえが食われればいいんじゃねぇの。正義の味方なんて自分を犠牲にして何かを守るもんだろ。一回、試しに食」
「あっはははははははははははははははははははははははは。―――死ねばいいのに」
ナイフの突きが喉を狙ってきた。とっさに捌くが切っ先が首を掠める。
「・・・あっぶねぇな・・・」
「うん、そうね。私が馬鹿だった。あなたに喋る時間なんか与えた私が馬鹿だった。え? 私が馬鹿なの? 違うでしょう? あなたの責任よね? でしょ
う? そうよね?」
にこにこと捲し立てる実希は、だが目が笑っていない。怖い。
「わかった、悪いのは俺ってことでいい。だからナイフを下ろせ」
「ナイフを? 刺すの? どこに? 眉間かしら。それとも眼球?」
逃げようとしたところ胸ぐらを掴まれた。満開笑顔の実希がナイフの腹でピタピタと頬を叩いてくる。
「―――マジ死んどくか?」
ドスのきいた声が言ってきた。誰だこれは。
「ごめんなさい」
なにに対する謝罪かわからないまま、とにかく謝った。このままではコンクリートで固めて海に沈められそうな気がする。
ぎりぎりと首を締めあげていた実希の手が、突然俺を解放した。
「いいわ。行きなさいよ」
「・・・は?」
「確かに今のあなたは弱りすぎているものね。残念だけど私は蟻を踏み潰して悦に浸る趣味を持ち合わせてはいないのよ。見逃してあげるから行きなさい」
鼻を鳴らした実希が顎をしゃくる。
「いいのかよ」
あっさりしすぎで不気味だ。情けをかけられるほどに今の俺はザコ臭を放っているのか。
「考えてみれば、あなたのことだから通り魔的な犯行はしないでしょう。知り合いに土下座しながら靴を舐めてようやく、数滴の血を恵んでもらうくらいかしら」
「俺のイメージそんなんか」
口で何と言おうと、実希はすでに敵意を消している。ついでに、目障りだといわんばかりに手をひらつかせて追い払う仕草をしてくる。
なんにしても、これ以上ちょっかいを出してこないなら楽だ。
「私の気が変わらないうちに一刻も早く消えなさい。三十秒経っても視界に入っていた場合は全力の追いかけっこを開始するわ」
ナイフ持って追いかけてくる鬼とか、ただの殺人鬼だろ。
背を向けた実希が数を数えだしたので仕方なく逃げることにした。