女が歩いてきた。
 今度こそ女だ。胸とか胸とか胸とかが、女だ。
 公園を出たところ。
 遅ればせながら顔を見て納得した。よくよく知った顔。そして、見たくなかった顔。
 「ハロー。元気してるみたいじゃなーい?」
 女は、にこやかに言ってきた。
 これは、つまりアレだ。
 ―――太陽が昇れば朝になる。
 ―――氷が溶ければ水になる。
 それくらい当然の、もはや自然の摂理。
 ―――鈴になにかあればコイツが出てくる。
 鈴の姉貴様、茜だ。
 「それ。ウチのコのよね」
 茜は俺がぶら下げているバッグを指差した。
 俺はもう、この後の展開が容易に想像できてテンションが下がりまくる。
 「あいつが置いてったんだよ」
 「ふふふ。あのコったら、そそっかしいところがあるのよねえ」
 茜は、いわゆる美人というやつだ。よく通る声は人当たりのいい爽やかな印象を与えることだろう。―――だが騙されるな。
 「それじゃあ、返してもらおうかしら」
 茜がゆらりと動く。
 斬。
 と。
 俺の腕が肩から落ちた。バッグは握ったままだ。
 いちおう補足をしておくならば。俺の腕は取り外し可能だとか、ネジが緩んでいるので頻繁に落ちてしまうだとか、そんなことは決してない。神経が通り血が 流れ肉でできた普通の腕だ。生物の規格に当てはまっている。
 「やーだー。汚れちゃったー」
 茜は唇を尖らせてバッグを拾っている。俺の腕は蹴り飛ばしやがった。
 つまり、そういうことだ。
 バッグを取り戻すために、俺の腕からぶった切ったわけだ。
 「・・・いきなりかよ」
 飛びのいた俺は溜息混じりにぼやくしかない。
 気合で止血。出血は少量。
 痛覚遮断。少しだけ痛い。
 まあ、そこらへんは生物の規格外かもしれない。
 「早く済ませて帰りたいんだものー」
 「あのな。届けるつもりだったんだからな。それ」
 「あらあらそうなのー? ごめんね」
 白々しい笑顔浮かべやがって。ゴメンでかたがついたら病院はいらねえだろ。
 「でもさあ。いらないでしょお? 手癖が悪くて手が早い。そんな手、いらないわよねー」
 「んなわけあるか」
 どこまでもマジなふざけた発言だ。その言葉はそのまんま茜に返したい。いきなり腕を切り落とすようなやつの手こそいらないだろ。
 いつも以上に攻撃的だ。にこにことブチ切れていらしゃる。ブラコンお姉様は弟に泣きつかれてご立腹ってか。いや、鈴の性格からして家に帰ってからも普段 通りに振舞ったことだろう。茜の異常な勘の鋭さがあっての出陣だな。
 笑えねえ。
 「茜。血、吸わせろ。慰謝料はそれで勘弁してやるよ」
 正直、軽口をたたく余裕はない。茜とは相性の悪い俺。無傷で帰れる確率は一割を切る。
 茜の挙動に注意する。自然体こそこいつは怖い。
 さっきの一撃、斬られた瞬間に気付いたくらいだ。
 「それが嫌ってんなら。そうだな。胸揉むとかでもいい」
 「―――そうやって、鈴にも迫ったのね」
 「ん? いや。ん? そうだけど、おまえの解釈はどこか間違っている気がする」
 不穏な感じに。もの凄く嫌な感じに。
 「揉んだのね? 鈴の胸を」
 ああほら。やっぱり。茜は既に異常だ。
 「・・・待て。少しでいいから待て」
 俺の制止も無意味。茜はトンでいる。目がヤバい。
 「耳元で卑猥な単語を囁きながら鈴の血を舐め啜ったのね。耳穴レイプなんて羨ましすぎるじゃないの。あんたの下卑た言葉攻めにも鈴は可愛らしく反応した ことでしょうね。羨ましい」
 「俺の周りには変態しかいないのか。あと、おい。本音が怖い」
 「さぞかし鈴は美味しかったでしょう。思い出しただけでも興奮するでしょう、勃起するでしょう。分かるわ、その気持ち」
 「おまわりさーん、痴女がいるんですー。助けてー」
 丸投げしたい。帰りたい。
 と、いうワケにもいかない。俺としてはそれでいいのに。
 トンでいるようでいて茜には隙がないのが困ったところだ。
 俺が言うのもなんだが茜はバケモノだ。俺の腕を切り落としたのは包丁らしい。そんなもので俺とやりあえる、人間卒業したバケモノ。愛の力が偉大すぎる。
 ほら。
 感心している間にも首筋を狙った一撃。いつ回りこまれたんだか。辛うじて距離をとったつもりが、茜はもう突っ込んできて懐に。回避不可能。腕を楯にして 急所を逃がす。
 ふざけろ。死なないにしても痛ぇんだよ。
 茜が包丁をひく一瞬で飛びずさる。
 「鈴が待ってんだろ。早く帰ってやれよ」
 「あんたなんかが、あのコの名前を口にしないでくれるかしらぁ!」
 「はいはい悪かったな」
 「あのコを見た、その目。触れた、その手。嗅いだその鼻、味わったその舌! 抉って削いで切り落とさなきゃ、安心して帰れやしない! 今なら出血大サー ビスで去勢手術もつけてあげる!」
 マジで誰か助けてほしい。いつもみたいに茜の気まぐれで終了することを願ってみても、今日ばかりは無理そうだ」
 もう限界。
 もう、マジで、面倒すぎる。
 「―――」
 めんどう、だ。
 だいたい。
 こいつとあそんでどうなる。
 そんなことをしに、でてきたわけじゃない。
 こんなむいみなこと、おわらせよう。
 さっさとかえろう。
 俺は腹が減っている。
 「―――・・・」
 突っ込んできた茜を馬跳びでかわす。油断していたらしい、空振りの表情が面白かった。
 俺が着地したと同時に、振り返らずに投げられた包丁が太腿に刺さった。茜の手にはすでに別の包丁が握られている。常軌を逸した反射神経で体勢を立て直し て突きが放たれた。俺が半歩退いてかわした―――刹那、茜の手は俺の腿に刺さっていた包丁を引き抜き、回転するように胴の薙ぎ払い―――。
 ギリで退いて腹に一閃。
 浅い。
 「ばけもんが・・・」
 舌打ちして距離をとる。
 捌ききれねえし、地味な痛みにイラつく。
 「化け物はあんたでしょ。あたしは、ただの美しい人」
 「美しいってのは認めるけどな」
 「あら、サンキュー。でも死んでよね」
 死ね発言。今日何度目だ。
 茜が本気なら殺される。怒りと妬みを力に変えて、茜の身体能力は五割増。元がハイスペックな茜さん。俺は不調で半分程度動けるかどうか。
 まったくもってイイ勝負だ。
 茜は迷わず飛びかかってきた。
 恐ろしいわ、この女。
 将来、鈴に手を出すであろう女だか男だかの冥福を祈る。
 以上。
 それで雑念は切り捨てた。
 「          」
 短く息を吐き最小限の構え。いや、構えない。
 「          」
 脳天めがけて振り下ろされる包丁をギリギリまで引きつけ、首の動きだけで軸をずらして肩で受ける。
 いてぇな、くそ。
 でも。
 はは。
 残念。
 伸びた肘を固めて勢いをつけて投げる。
 やっぱ軽い。
 腕は掴んだまま地面に叩きつけるつもりが、猫みたいに足を着いた茜にタックルをかまして倒れ込む。体格では俺が有利にしても片腕のハンデがでかすぎる。 暴れまくる茜にのしかかれば、蹴られるわ殴られるわ。罵詈雑言が酷すぎる。
 喧しい口を、口で塞いで。
 「んッ。ン!!」
 「ッ。づ」
 唇を噛み切られた。唾を吐き捨てた茜がなにか喚いている。
 口内に広がる血の味。ようやく味わったのが自分の血なんて―――笑えるじゃねえかよ。
 「          」
 疲れた。
 マジ疲れた。
 俺はもう疲れた。
 付き合ってらんねぇわ。
 「          」
 茜の胸ぐらを掴み、引き寄せながら全力で頭突きをかます。流石のバケモノも一瞬身体が弛緩した。その顔面を鷲掴みにして振り上げる。
 全身全霊、全力で、思い切り、全体重をかけて地面に叩きつけた。
 「―――・・・・・・」
 やった。
 ―――ヤった。
 ――――――やっちまったな。
 「・・・・・・」
 手を離す。茜は完全に沈黙していた。
 ただの気絶だ。バケモノめ。
 「なんで・・・こんなメにあってんだ」
 寒い。冷たい。痛い。ダルイ。
 泣きそうだ。泣こうか。泣いてみたり愚痴ってみたり。
 嗚呼、それは、なんと素晴らしい時間の無駄。
 それくらいなら帰って寝たほうが前向きだって知っている。
 「・・・帰るか・・・」
 気合を入れて立ち上がる。
 包丁はゴミ箱に捨てておいた。分別なんか知ったこっちゃねえ。
 茜を担ぎ、バッグと俺の腕は適当に引っ掛ける。そんなシュールな状態で俺は公園を出た。
 のろのろ。
 ふらつきよろめき、かなりの時間をかけて茜の家の前まで辿り着き、茜+αを玄関先に放置。ピンポンダッシュ的に死に物狂いで逃げた。
 本当に死ぬかと思った。
 「なにやってんだ俺」
 物思いに耽ったりもした。


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